ソムリエのトホホ日記。

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help RSS 『黄昏のアントワープ』/辻仁成

<<   作成日時 : 2007/09/15 00:41   >>

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 『黄昏のアントワープ』/辻 仁成(2006年 海竜社)


 「旅とは、人生そのものだ。
 命あるかぎり、旅をしよう。
 過去と折り合い、未来を生きるために。
 思い出と和解し、今を喜ぶために-。」


 「歩け、呑め、喰え」を合言葉に、芥川賞作家である辻仁成さんが、愛妻(中山美穂さん)と二歳の息子さんとの素敵な旅を綴ったエッセイ集。
 書評を書くつもりは、全然ありません。
 今回は、このエッセイ集の中の「地下ワイン帝国、最後の門番」という章に収められている、Caviste(キャヴィスト)という仕事について。


 Caviste(キャヴィスト)と呼ばれる仕事があります。
 ワインカーヴやワインセラーの管理する人。
 ワインカーヴの番人。

 パリにある名門レストラン「トゥール・ダルジャン(銀の塔)」。
 1582年創業以来、フランス歴代皇帝をはじめ、各国王室、セレブリティの御用達として、その名声を400年に渡り守り続ける至高の存在。
 その地下1階と2階は、約50万本、1万1000種類のワインが眠る、世界一と呼ばれるワインカーヴとなっています。
 そのワインの管理とセレクトを任されているのがシェフ・キャヴィスト「林秀樹」さんです。


 約50万本のワインのことを全て把握し、整理管理し、上階のレストランjから注文票が下りてくると、即座にそのワインを見つけ出し、レストランに上げる。
 ワインのことはもちろん、ヴィンテージ、造り手の名前、畑、熟成の状態、保存場所等を全て把握していなければ務まらない仕事です。
 フランスの有名レストランでも、ワインのストックはだいたい7万本、多くて10万本といわれています。
 そういうレストランではキャヴィストは必要ありません。
 ソムリエが、自分でカーヴに取りに行くからです。
 キャヴィストが必要なレストランは必然的に限られてきます。
 彼は、世界で数少ないキャヴィストの一人でもあるのです。
 

 彼はワインの熟成に、そしてヴィンテージ・ワインにこだわります。
 現在、「トゥール・ジャルダン」に眠る一番古いワインは、1868年の「シャトー・グリュオー・ラローズ」。
 現在から約140年前に造られたワインです。

 「ワインは呑んでしまったら、それで地球上から消えてしまう幻の芸術品だ。今、地球で生きている人々が最後のデギュスタトゥー(試飲者)であると僕は思っているよ。」

 ワイン製造工程へのコンピューターの導入、技術革新、世の中の早い飲み化の傾向。
 ここ数十年でワインの造り方、出来上がるワインの味わいは大きく変化しました。
 本来長期間寝かせなければ渋くて飲めなかったワインが、短期間の熟成で飲めたりするようになりました。
 しかし、彼はそこに疑問を投げかけます。
 そのようにして出来上がったワインが、果たして昔のワインのように30年、50年と年を重ねることが可能なのか?
 新しいテクニックを駆使したワインが次々と市場に出て行く中、そんな古き良き時代のワインはどんどん少なくなってきています。
 そんな機械やテクニックに頼っていないワインを愉しめる最後の世代。
 そういう意味を込めて、彼はこの時代に生きている人々を「最後のデギュスタトゥー」と表現しています。
 最高の熟成を達成したワインを飲むことができる最後の人類。


 その他にも、興味深い話が語られています。
 一時期よく議論されていたのですが、ワインがコルクを通して呼吸しているかどうか。
 ワインがコルクを通して呼吸をしていれば、ワインが酸化して駄目になりますし、そんな空気の行き来はないという意見が主流で、現在スクリューキャップのワインが多く出回っています。
 科学的に言うと、空気の分子はコルクの中を通ることが出来ず、よってワインの熟成に空気は関係ないということです。
 つまりコルク臭が付いてワインが駄目になる危険性のあるコルクより、完全密閉さえできればスクリューキャップやゴムとかの加工コルクでいいではないかと言うこと。
 この意見にも、林氏は疑問を呈します。

 「20年もじっとワインの瓶を眺めていると、じりじりとワインの液面が下がってくるのが分かる。
 その減った分はどこに行くのかと、僕は聞きたい。
 逆に、空気の分が増えているんだからね。
 そこを通過して、移動する空気のことを、誰が眺めているのだろう、と僕は思うんだよ。」

 20年以上、ワインが熟成していく姿を眺めてきた林さんだからこその言葉。


 最後に、彼は以下のように締めくくります。

 「音楽は演奏家が違うと全く別物になるから、好きなものばっかり聞いてしまう。
 例えば、ピアノだとホロヴィッツだとか、歌はパヴァロッティとかレナータ・テバルディとか、曲によってはフレーニもそうだし。この嗜好は、どこから来ているのかなぁ。
 形のないものに感じるというか。
 ワインっていうものの価値をさ、人はどうやって評価するのかね?
 星や点数でワインの良さは決められないだろ?
 それだけに情熱を傾けるソムリエがいたら、失格だな。
 美味しさに勝ち負けはない。
 あるのはさ、潔さと素晴らしさだけだよね。」


 売れっ子評論家や、カリスマ醸造家の出現。
 「パーカー○○点」、「ガンベロ・ロッソ誌、トレ・ビッキエリ」
 そんな言葉や広告が氾濫し、ワイン本来の姿が見過ごされがちな現代社会に投げかけられた最後の疑問。
 なんでも数字で計ろうとする現代社会。
 しかし、数字で計れない尊さのようなものも、あるのではないのでしょうか?


 例えば、私たちの日々の営業でも同じです。
 その日、お店の売り上げが良かったとして、数字だけで言えば、お店としてはそれでOKなわけです。
 しかし、数字で表れる結果だけが全てじゃありません。
 来ていただいたお客様の気持ちとか、サービスした私自身の気持ちとか、そいうことは数字には出ません。
 でも、そういうことの方が大事だったり、尊かったりしますし、勝ち負けで言うなら、そういう数字で計れないものも含めて勝たないといけない訳で。
 ワインというものも、結局そういう飲み物なんだと思います。
 

 この章以外にも家族とともに歩いた、ヨーロッパの幾つかの都市が取り上げられています。
 そこで出会った人、食材、レストラン、ワイン、エピソードなどが活き活きと描写され、人生の縮図である旅のワンシーンを切り取った思い出のアルバムのようです。
 辻仁成さんの作品は『冷静と情熱のあいだ』以来だったのですが、温かさと力強さ、そして少しのロマンチックさは、とても心地良いものでした。
 読書の秋にお勧めの一冊でした。

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